株式会社ゼロン ZERON
人からはじまるトータルソリューション

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ゼロンのサービス・メリット

ゼロンの歩み

1.ゼロンの誕生

ゼロンの歴史 ゼロンが誕生したのは平成5年7月。もともと大阪のアミューズメント企業で人事を担当していた弊社代表・城山光秀は、長いこと『人の問題』に頭を悩ませていました。“人手が足りない”、“質が悪い”、“トラブルが頻発する”、“長続きしない”などなど…。社会的認知度が低く、労働法に伴った整備ができていなかった当時、スタッフの問題は、実は、アミューズメント業界全体が抱える問題でもあったのです。

実は当時、すでに大阪では派遣会社が存在しており、城山が勤めるチェーン店でも時おり利用していました。“時おり”だったのは、その会社のシステムや店に派遣されてくる人材が、決して満足できるものではなかったからです。例えば、A君が派遣されてきたとしましょう。まず社員が、お店の業務マニュアルや接客マナーなどを教育します。ところが、2〜3日して、A君が風邪をひいて寝込んでしまいました。派遣会社から代わりとしてB君がやってきます。しかし、このB君、お店のことはなにも分かっていない“新人”なので、また改めて社員が一から業務を教え込まなければなりません。これは、労力的にも時間的にも大きなロスに繋がるわけです。それでも、“猫の手も借りたい”ような忙しい時期には、この派遣会社に頼まざるを得ない…。「もっと効率が良く、上手い方法はないものだろうか」。そこで城山は考えました。お店に人が足りないときにスポットで頼むのが従来からある“人材派遣”。しかし、これは前述のように、お店にとって大きなロスとなります。「1人、2人と派遣してもらうから、手間がかかる。いっそ、スタッフをまるごと頼めるところがあれば。」

ゼロンの歴史 ひょんなことから、城山にアイデアを具現化するタイミングが訪れました。勤めていた会社の内部でゴタゴタが発生。これに嫌気がさした城山は、 会社を飛び出すことに決め、その後の身の振り方を考えました。「また同じようにサラリーマンとなるのは無難すぎる。暖めてきたアイデアで起業し、“人”で 困っている業界の一助となるべき時だ」。人材派遣会社『ゼロン』は、こうして誕生しました。

しかし、『ゼロン』を興したもののすぐに仕事はなく、しばらく城山はアルバイトなどをしながら糊口をしのいでいました。軌道にのるキッカケとなったのは、立ち上げから約1年後、平成6年6月に入ってきた2件の大型受注でした。翌・平成7年には阪神淡路大震災を経験。被害を受けた店舗がリニューアルオープンする“震災特需”とも言える波を受けて、平成8年に『ゼロン』は大ブレイクしました。

今でこそ謳っている“人材派遣”ですが、創業当時はまだ自由化になっていなかったのは、ご存知の方も多いことでしょう。実はサラリーマン時代に城山が使っていた人材派遣会社も無認可営業でした。パチンコ店に人を派遣することは、労働大臣が許してくれなかった時代ですから。そこで考えたのが、城山のアイデアを基にした、お店の人事教育部門を一手に引き受ける“請負型派遣”。これは、例えば、接客サービスのためにホールスタッフが早番6名・遅番6名の計12名必要なお店があったとします。『ゼロン』では、欠勤等のアクシデントに備えて5割増の18名を準備し、その店舗の業務マニュアルや接客マナー、ノウハウなどを教育。シフトまで組むというものです。

従来の無認可営業の人材派遣を踏襲することなく、現場で実際に経験してきた“悩み”を解消する、この『ゼロン』独自のシステムは業界からの支持を獲得し、お役所をも動かしました。平成9年9月、『ゼロン』は、“パチンコホール専門の店内業務請負業”として、正式に認定されたのです。さらに、この認定を受け、リクルート系の求人誌への広告掲載が可能となり、若いスタッフが飛躍的に集まるようになりました。一担当者としての“悩み”から生まれた城山のアイデアが、全く新しい業態を生み、市民権を獲得するとともに、新たな雇用環境をも創出したわけです。

“業界特化型の店内業務請負業”として順調に業績を伸ばしてきた『ゼロン』は、ミレニアムを前にして、重大な岐路に立っていました。当時はまだ、“関西ローカル”で、社員は神戸に十数名。一層の飛躍を考えたとき、関西にとどまり多業種展開を進めるのか、もしくは、業界特化型として、東京進出を目指すのか、社内で討議が繰り返されました。
この結果、導き出された答えはゼロンは業界特化型として、東京を皮切りに全国進出を目指すこととなったのです。

ゼロンの歴史 その後、ゼロンは、その存在を全国に問うべく、新たな一歩を踏み出しました。2000年4月に東京へ進出。“業界特化型の店内業務請負業”は、関東でもご好評をいただき、現在では札幌・仙台・茨城・大宮・高崎・秋葉原・渋谷・八王子・名古屋・神戸・姫路・広島にも進出するに至っています。

ゼロンの歴史 2004年、法改正により、人材派遣が自由化され、これを受けて『ゼロン』も“人材派遣業”としての認可を受けました。しかし、私たちが提案するのは、巷に溢れる“人材派遣”とはひと味もふた味も違います。これまでに築いてきた実績と、培ってきたノウハウの集大成ともいえる『ゼロン』独自の人材派遣のカタチ、これが“チーム型派遣”なのです。


1. ゼロンの誕生 2. 大震災を乗り越えた“人の繋がり”
2.大震災を乗り越えた“人の繋がり”

専務取締役 日山 孝一

専務取締役 日山 孝一 ゼロンと私の出会いは、平成6年に遡ります。その頃、私は神戸・三宮のレジャー施設で管理職を務めていました。地上6階・地下1階のビルは、1階がパチンコホール、2階が喫茶店、3階4階が居酒屋、5階ビリヤード、6階がカラオケ。地下1階は映画館だったのですが、この映画館を撤退させ、このスペースにパチンコホールを増設することになったのです。とはいえ、新たに従業員を雇うとなると、福利厚生などで、コストが増大します。“スタッフは人材派遣で”ということになり、紹介を受けたゼロンに派遣を依頼しました。これが実はゼロンにとって、“請負型”で派遣する2号目の店舗でもあったのです。

レジャー施設が集まる三宮には、娯楽を求める人も自然に集まってきます。そのため、当時、このあたりのパチンコ店の“常識”は、“玉を出さなくてもお客さんはやって来る”。当然、店舗にもあまりお金をかけず、従業員は年配の人たちが主流でした。つまり、サービスが良くなかったわけですね。そこで、新規開店に際して“なにかインパクトを”と考えたわたしは、「若い女性だけでスタッフを編成し派遣してほしい」とゼロンにお願いしました。当初は物珍しさで、やがて、キビキビと気持ちよく働く派遣スタッフのサービスが評判を呼び、地下1階という決して恵まれてはいない立地にも係らず新店舗は大繁盛。売上げはうなぎ上りで、オーナーの予想を遥かに上回る急成長ぶりでした。また、偶然にもゼロン社長の城山と私は同い年。意気投合し、仕事の垣根を越えて、よく行動を共にするようにもなっていました。

専務取締役 日山 孝一 ところが、開店からわずか半年後の平成7年1月、阪神淡路大震災により、ビルは全壊しました。もちろん営業はストップ。それどころか電話も通じないような状態です。ビル全体の従業員は、派遣スタッフを除き、約120名。彼らを集めるため、集合日時を記した紙を店舗に貼り出しました。そして、1月27日、無残に傾くビルの前に集合した従業員に、とりあえず掻き集めたお金を1人10万円ずつ手渡し、解散を通告。私も残務処理を終えたのち職を辞し、京都の実家へと帰りました。

“ゼロンとの仕事は震災で、消滅。半年間親しくした城山との縁もこれで潰えるのか・・・。”震災のショックが癒えぬまま、しかし、家族を養うため、日雇い労働で日々の糧を得る生活を2ヶ月ほど続けたある日、城山から1本の電話が入ってきたのです。
「いま、何やってるの? ウチにおいでよ。一緒にやろうよ」。

私がゼロンの一員になった陰には、このような経緯があるのです。震災で人生が変わった人は数多いと思います。わたしもその一人。城山が“人との繋がり”、“人との縁”を大切にしてくれたおかげで、助けられました。“恩に感じている”と言うと「そんなのいいから」と社長は嫌がるんですが、私にとっては得がたい体験。私も同じように、社員たちと、お店の方たちと、スタッフたちと“人との繋がり”を築いていきたい。

“人との繋がり”や“縁”をいちばんに考える人間の集まり。ゼロンをそんな集団にするのが私の夢であり、目標でもあります。

1. ゼロンの誕生 2. 大震災を乗り越えた“人の繋がり”


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