社長が現場に立って息を吹き返したホール

初めて出会ったのは今から6年前。
当時はホール営業部長をやっていた。一念発起して釘学校へ入学し、40の手習いでハンマーを握り、現場で釘を叩いているころだった。

次に会ったのはそれから2年後。
ホールを退社して釘学校の講師になっていた。そのころから自分の夢を追い求めていた。これまで培ってきたノウハウを基に独立してホール経営を始めることだった。

この夢に元の職場の部下3人が共感した。

スポンサーのメドはついたが、物件探しは1年以上も難航した。
目星をつけたのが200台ほどの駅前ホールだった。隣接するホールは超優良店だった。家賃は200万円。その代わり客はほとんどいない店で、0の日も珍しくなかった。設備も古く中古品を使っても6000万円の初期投資を要した。外装はペンキを塗りなおしたが内装までは手が回らなかった。

そして、去年のGW明けにオープンする。
釘調整の失敗から開店3日で1カ月分の運転資金を使い果たした。
客の数よりスタッフの数の方が多かった。1桁の客入りがずっと続いた。

社長についてきた幹部3人は、2カ月後には全員が辞めた。

いくら努力しても稼働は上がらず、給料を取ることが忍びなかった。
すぐに業者への支払いも滞った。
資金力も乏しく誰もが「もう終わった」と思った。

しかし、社長は諦めなかった。
新たなスポンサー探しに奔走した。

そして、見つかった。
店名も改め、内外装も全面リニューアルして新たな船出をしたのが昨年暮れだった。今度はスタートダッシュに成功した。

1週間で社長は新たな決断を下した。

「4円は捨てる!」
4円の客は競合店に任せ、「2円、1円」に方向転換した。
目指したのは地域密着営業だった。同じ失敗は繰り返されない。社長は今回のリニューアルに命を賭けていた。

自宅には帰らずホールの2階に住み込んだ。自らホールの表回りを始めた。スタッフもやる気のあるものだけを残した。
早番はカウンターを含めて2人。遅番は3人。役職者であろうが事務所にいることはない。釘も叩けば表回りもいとわない。

社長はあえて身分を明かして表回りをしている。

社長と分かると「玉がでない」というクレームから始まり、コミュニケーションが徐々に生まれていく。それが狙いだった。
地域密着型を標ぼうするように、朝、昼、夜の客とあいさつし、ことばを交わした。

「生まれ変わったことをお客さんに見せようと思ったら中途半端なやり方ではダメ。それで4円も捨てた。『おはようございます』とあいさつしても、お客さんから返してもらうまで随分時間もかかった」(社長)というように一朝一夕でコミュニケーションは生まれない。

ある日、花の慶次で打っていたおじいちゃんに社長が近づいた。せっかく役モノが開いているにもかかわらず打ち方が弱いために入らない。
そこで、ハンドルを持って、狙いどころを教えたら「パチンコ屋で、こんなことしてくれたのは初めてや」と感激された。

それからおじいちゃんは毎日来るようになった。
「きょうはカネがないから帰るからな」とわざわざ社長に声を掛けるようになった。

閉店後にネオンが点いていると「お~い、ネオンが点いてるで。もったいないから消せ」と注意してくれる客も。
「スタートは目茶目茶回している。お年寄りは年金生活でも毎日パチンコしたい。それを現場で見ていると、とても釘は閉められない。限界まで行ったれ!ですわ。せっかく通ってくれている人を裏切りたくはない。この稼働を維持するためにも」
稼働があるので新台入れ替えも月2回行えるようになった。ちなみに、平日は午前中~午後は40~50人、夜で100人あまり。土日はピークで150人。1桁の客しか入らなかった半年前が嘘のようである。200台のホールでこれほどの稼働なのに最小限の人数で回すのは
「非効率から生まれる人間関係を築き上げるため」。
ホールの住み込み生活も半年を迎えた。
「やっと芽が出てきたので、もう半年住み込んでみる」
社長がここまでやれば、まだまだパチンコ業界の潜在的パワーは引き出せる。

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